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【メモ】沖縄・軍本主義・価値観

2012/05/15 22:15

 

第5次振興計画スタート アジアの活力取り込む 沖縄復帰40年 空港・貨物ハブ整備など、経済自立の10年に (日経新聞 5月15日)

 第5次沖縄振興計画(2012~21年度)がスタートする。政府は11日、新たな沖縄振興策の指針「沖縄振興基本方針」を決定、物流拠点や観光産業の強 化を盛った。新振興計画は15日に決まる予定。計画はこれまで政府が策定していたが、今回は主体が沖縄県に移譲された。沖縄の経済自立に向けたキーワード はアジア。距離が近いアジアの活力をどう取り込むかが振興のカギとなる。

 

 「基地負担」の代償になされる手厚い補助。

 沖縄に対する公共事業は無駄ではない。

 それは基地負担に対する代償だから。

 つまり、「基地本位制」だ。基地本位主義、軍本主義。

 

 デフレ不況が続き、少子化が叫ばれる中で、沖縄は全国トップの出生率と人口増加率を誇っている。

 これを「奇妙なこと」とか、「沖縄の風土がそうさせているんだろう」などとマスメディアはとぼけているが、

 これが「基地負担」の代償として行われている公共事業によるものだとは、口が裂けても言えないだろう。

 まさか、「公共事業による下支えによって少子化(不況)が解消できる」などと言ってしまったら、「無駄な公共事業」を批判できなくなるのだから。

 無駄な公共事業をするくらいなら、無駄な日本人はもっと減るべきだ、無駄な地方はもっと寂れるべきだ、日本人はもっと死ぬべきだ、というのがこの20年、日本を覆っている空気(価値観)である。

 

 しかし、その空気(価値観)を封じる手段があるわけだ。

 それが「基地負担」というカードである。

 公共事業は悪であり、たとえ失業者を活かすためのセーフティーネットであってもモラルハザードで財政赤字が増えるくらいなら失業者が死んでも構わないという空気を打破するためには、そのような「常識」を覆す必要がある。

 

 幸いにして沖縄を過疎と貧困から守ってきたのが、皮肉なことに米軍基地という迷惑施設だったわけだ。

 テレビで沖縄の少女が「米軍のいない沖縄になってほしい」的な事を言っていたが、残念なことに、米軍がいなかったらおそらく彼女は存在しなかっただろう。

 まさに、戦前の沖縄が現在の裏日本と同様の過疎と貧困にあえぐ地域であり、離島僻地には水道すらなく、医療も惨憺たるありさまで、ゆえにハワイや南洋への移民者は沖縄人が多かったそうなのだから、米軍基地がなければ沖縄で生まれた若者は、そのほとんどが沖縄を出なければ生活できなかっただろう。基地に文句を言うまでもなく、沖縄など誰も見向きもしない土地になっていたはずだ。

 それを解決したのが米軍によるインフラ整備であり、もしくは基地負担に対する見返りとして行われた公共事業なわけだ。

 

 戦前は台湾が日本領だったから、沖縄に戦略的なメリットがなかった。

 そのため台湾の開発が優先され沖縄は後回しになったわけだが、戦後、日本から台湾が離れ、台湾が独立して中共と対立するようになると沖縄に戦略的重要性が増した。中共におもねって台湾本土に基地を置けなかった米軍は、やむなく沖縄を基地化して極東の軍事拠点とすることにした。もし、台湾に米軍基地を置けるのなら沖縄からはいつでも米軍は出ていくだろう。

 それでも台湾が日本領でないかぎり、日本にとって沖縄は戦略的拠点になるので戦前ほどに寂れはしないだろうが、しかし北海道を見るにつけ、緊張緩和がなされるに連れ、「無駄な公共事業の削減」運動を阻止できなくなるだろうが。

 

 その場合にも重要なのが、「軍本位主義」となる。

 ようするに「攻めてくるかもしれないんだからちゃんと用意しよう(金を出せ)」という思想だ。

 危機管理は価値であり、対価を支払うべきものであるという。これは米軍の軍産複合体あたりも持っている思想であり、人類の根本的な価値観の一つでもある。

 だから北海道あたりはもっと北方領土問題をこじれさせてロシアと緊張関係をもたせた方が北海道に対する財政出動は増えるだろう。これはロシアも同様に、北方領土の実効支配を維持するために開発投資を行おうとしているわけで、北方領土の投資という観点から見れば、危機さまさまである。

 ちょうど韓国も、一見何の価値もない岩礁(竹島)に基地を作って開発しているが、それを無駄だとは思わないのはそこに金をかけるだけの価値があるからだというわけだ。

 

 そういう、金をかける価値を見つけるのが、「○本主義」とか「○○本位制」といえるだろう。

 価値観を操作すればゴミでも価値が出る。

 最近問題のケータイのガチャとやらでも、あんな単純な仕掛けでも金を払うのは、それに価値を見出す者がいるからだ。

 

 無駄を削減しろとか、働かざるもの食うべからずとかいう空気(常識)を排除するための「魔法の言葉」がある。

 人々の価値観を転換してゴミに価値を見出させるテクニック。

 それが沖縄であれば「基地負担」であり、その他にも、原発とかゴミ捨て場とかガレキ受け入れとか、世界遺産とか「弱者」とか「外国人」とか「差別」とかがあるわけだ。

 重要なのは、そういう手口があるということであって、それがいけないとかやめるべきというつもりはない。

 それはそういうもの、人々の価値観がその程度のテクニックで変わってしまうということだ。

 

 価値観というのは移り変わるもので、現在の日本を覆うデフレ不況も多分に国民の構成する価値観による弊害が大きい。

 「金なんか日銀がすったらいくらでも出てくるんだよ」というのが実はデフレ解決の最大の手法なのだが、おそらく多くの日本人はその言葉に対して嫌悪感を抱くはずである。

 そういう嫌悪感がデフレを固定しているのであり、つまりそこで必要なのは、沖縄が公共事業を無駄と言われないのが基地を負担しているからだという言い訳で排除できるような、そういう「価値観を転換する方法」なのだ。

 

 沖縄も、米軍抜き、日本政府主導ではない、沖縄独自の経済発展を目指すのならば、「軍本主義」から抜けだして、別の価値観の転換を図らなければならない。東アジアの緊張が緩和し、米軍の存在意義がなくなれば沖縄など、日本の他の離島僻地と同様に「無駄な土地」に成り下がる。

 「アジアの活力」などと言って、沖縄自身の活力を無視していれば、結局は戦前と同じく台湾にその座を奪われる事になるだろう。 東アジア共同体だろうとTPPだろうと、沖縄の価値は日中冷戦の地政学的立地以外に、今のところ価値が見出されていないのだ。

 

 それは今後、日本列島自身が直面する問題でもある。グローバル化し、世界が一つの市場に統一され、軍事的・地政学的な立地が価値を持たなくなった時、日本列島の価値は今より確実に下がる。

 その時、日本人は価値観の変更を迫られるだろう。

 あくまで日本列島の発展を求めるか、それとも日本をあきらめるか。

 

 重要なのは、価値観である。

 経済を支配しているのは、人々が共有する価値観(空気・常識)。

 


なかのひと

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絵に描いた餅 ニュース記事に関連したブログ

2012/05/15 20:53

 

 ホンダ版セグウェイキタ――(゚∀゚)――!!

 

MSN産経ニュース 5月15日

 

 ホンダは15日、1人乗り電動車両「UNI-CUB(ユニカブ)」を報道陣に公開した。来月から日本科学未来館と共同で実証実験を始め、使い方やニーズを探る。

 

 …ていうか、デモンストレーションはもういいから、さっさと市場に出せよ、と。

 

トヨタ

 

ニュースリリース

2008/08/01 パーソナルモビリティ「Winglet」を開発

>2008年

 

 今年は何年?(笑

 4年経っても市場に出す気がないのなら発表なんかしなければいいのに。

 わたしにも、トヨタに期待した時期がありました…(遠い目

 

 

 おそらくホンダも売る気はないんだろう。

 ニュースでも一般向けじゃなくて業者向けに売るみたいなことを言っていたが、そんな腰の引けた売り方でムーブメントを起こせるとでも思っているのか?

 ASIMOの技術を応用とか言っているが、応用する前にASIMOを売ったらどうなんだと。

 

 これはようするにあれか、株主対策かなんかか?

 

 予言するわ、これ、ぜってー市場に出てこねーから。(笑


なかのひと

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関連ニュース

【メモ】存在自体が無駄

2012/05/03 20:22

 

 数日前にテレビで初島が取り上げられていた時に気になったこと。

 

初島 (wikipedia)

江戸時代から島内の戸数は41戸前後で天保元年(1830年)に41戸との記録があり、この戸数が現在まで続いている。島内の耕作地や生活用水が限られることから次男以下は島を出て、男子がいない場合は婿を取り、41戸と一定の人口を維持するという慣習があった。

 

 長男は家を継ぎ、それ以外は家を出るという風習は常識的にあるけども、島から出るというのは徹底している。

 とはいえ、実はわたくしの住んでいるところも似たようなもので、江戸時代から戸数が変わらない。もちろん、近年は過疎で減っているけれども、つまり減ることはあっても増えることはない。

 増やすことは禁止されていたんだったか、増やさないという不文律的な空気だったんだか。

 

 「余剰人員は村(島)から出ていけ」というのは、「日本人」の集団的無意識に刷り込まれている「空気(価値観)」のように思われる。

 

 むろん、土地の生産力は一定なのだから、人口が増えれば一人あたりの食い扶持が減る。

 小さな島レベルではリアルに飢餓の恐怖があるわけで、これは別に否定すべき風習ではないけれども。

 

 土地の生み出す価値には限界があって、その限界を超えることができないという「常識」があって、

 その「常識」に合わせて生きようとすれば、余剰人員は出ていけ、もしくは死ね、ていうかそもそも作るなよ、という発想に行き着くのは当然とも言える。

 しかし、その「常識」が単に無知から来る固定観念に過ぎなかったとしたら。

 

 それが「文明」というわけだ。

 土地の生み出す生産力はもっと大きくすることが出来る。

 生産に関わる労力はもっと小さく出来る。

 少ない人員で多くの人に食料を供給することができる。

 ということは食料生産に関わることで所得を分配していたら、所得を得られず、食料分配に預かれない人(余剰人員)が生まれる。

 食料は潤沢にあるのに、所得を分配する機会がないから食料を得られない人が出てくる。

 そこで「文化」が生まれる。同時に貨幣も生まれる。

 農業にかかわらずとも所得をえて食料を得られるような分配のシステムが生まれる。

 

 そのような文明のシステムが生まれない、理解できない時には、土地の生産に合わせて人の数を減らし、また、生産力があがって食料生産が「効率化」すると、余剰人員をさらに減らそうとする。あるいは余剰人員が生まれるから効率化(文明)自体を否定する。

 

  • 既存の生産レベルを前提に、必要以上の人員は余剰人員として排除する(村や島、家から追い出す)。
  • 生産性が向上すると、一人あたりの労働が減る。
  • 食料生産以外に労働がないと、食料の分配のための労働がなくなり、余剰人員が生まれる。
  • となると、さらに余剰人員を排除、もしくは制限するか、あるいは、「余剰人員が生まれるので生産性を上げない」という選択を取る。
  • 「無駄な人員」を食べさせるために「無駄な労働」を維持して、「汗水垂らしてクワを振るったやつだけに飯を食わせる」とやる。(「働かざるもの食うべからず」)
  • トラクターなど便利なものを使うと、余剰人員をより追い出すか、もしくは働きもしないのに飯を食う輩を見なければならない。
  • だから文明を否定して、不便で苦しい無駄な労働を繰り返す無駄な人員だらけの無駄な村が生まれる。
  • かつ、そのような無駄を無駄にしない、文化(絵画や楽曲・文芸、演劇)を「贅沢だ」とか言って否定する。
  • 食料や食料生産にかかわらず、価値を分配する役割の「貨幣・お金」を不浄として嫌う。

 

 なぜか「社会主義」という単語が浮かんだがよくわからない。(笑

 

 ともあれ、日本が江戸時代から今日まで基本的にデフレ嗜好で、人口抑制的、経済縮小的であるのは、そのような文明的な素養に欠けるからだと思われる。

 日本人は基本的に、未だに江戸時代の村や離島レベルの価値観で経済を見ているのだろう。

 

 「初島モデル」の、増えも減りもしない、一定レベルの規模を維持する社会とは、停滞した社会だ。

 安定しているようでいて、実の所、「存在自体が無駄」ともいえる。

 無駄を排除して、効率化した社会は、その社会自体が無駄になる。何の発展も向上もない、何の意味も意義もない社会である。

 

 

 日本列島はもっと多くの人口を養えるだけの力があるし、その方法もある。

 環境や景観を維持しながら、都市と農漁村が住み分けられ、今よりもっと多くの人々がより豊かに、幸せに暮らせる方法がいくらでもあるはずだ。

 それができないのは、方法がないからではなく、単にそういう発想に行き着かないだけだ。

 そのような固定観念があるからこそ、国内にある資源を有効活用せず、外国から買い続けるという愚かな選択をする。

 大陸棚が認められたといい、「海底資源の活用が期待される」などと言っているが、この分だとそのようなチャレンジはなされない。良くて外国に採掘権を売って結局そこから買うという判断になるだろう。それも、結局はコストが合わないからアフリカから買ったほうが安いなどといってせっかくある資源を使わないに違いない。

 今ある、日本国内の、日本人という貴重な資源を使おうとしていないように。

 

 

 家を出て一人前、村を出て一人前、日本を出て外国で活躍して一人前。

 まず、そのような「常識」を覆すことが第一となろう。

 

 


追記

 

 まるで日本は歴史的に発展して来なかった、と読めるかもしれないので誤解されないように書いておく。

 

 「初島モデル」的な日本人の価値観があるのは確かだとして、

 では日本は常にそうだったかといえば、違う。

 初島やわたくしの周辺の村落のように、日本は増えも減りもしない、停滞した変わらない土地だったかといえば全く違う。

 

 そのような停滞した社会は人類社会にとって、歴史的にも何の意味も意義もない。あっても無くてもいいような存在だ。

 では日本はそのようなあってもなくてもいい、人類史的にどうでもいい存在だったかといえば正反対だ。

 

 この列島で1億人の人口を養える、一大文明を築いている。

 

 日本人には深層心理に成長を否定する性質が見られるが、しかし、ある時期に突然、発展に目覚める時がある。

 文明の可能性に民族レベルで気づいた時、というか。

 そのような時期に、日本列島は停滞を否定して一気に発展の道を進みだす。

 

 数千万人しか養えないという常識を否定して、1億人を養えるように社会を改造してしまう。

 そのような姿勢は人類史的に価値のあるものだ。

 日本列島のような僻地でもこれだけの発展ができるということは、地球レベルで、人類がもっと繁栄できることを証明する。

 日本はそのような、人類にとって歴史的な価値を生み出してきた存在だ。

 

 だからこそ、「日本はもう発展しない」とか、「日本を出て海外で活躍しろ」とか、列島の発展を諦めて、この列島をどうでも良い存在にしてはならないのである。

 そして、歴史的にそうだったように、日本人はある時、この列島の可能性を信じて必ず日本列島の価値を再発見するに違いない。

 その時はそう遠くない。

 そうなった時、バカを見るのは「日本はもう発展しないから海外で活躍しろ」などという妄言を信じて海外に出ていった若者たちだ。(戦前の満蒙や戦後の南米移民を見よ)

 だからこそわたくしは日本列島の発展を否定する連中を許せないのだ。連中はそうやって余剰人員を減らしつつ、バブルになったら残存者利益を享受するのだ。

 

 日本人には列島の発展を否定せず、あきらめず、この土地でもっと発展できるという可能性にこそ賭けてもらいたいし、結局はそうなると思っている。

 それが歴史的必然というものだ。

 


なかのひと Firefox3 Meter

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名より実

2012/04/27 12:00

 

MSN産経ニュース 4月26日

 

 世界の海図や海、海峡の名称などを調整する国際水路機関(IHO)は26日、モナコのモンテカルロで開催中の総会で、韓国が「日本海」の呼称を「東海」と併記するよう求めている問題を討議、「日本海」単独呼称のままとすることを決めた。

 韓国代表団はこの決定を「結論先送り」と受け止めており、今後も国際機関の会合の場などで併記実現を働き掛けていく方針。

 IHO総会は5年に1度開かれ、今回は23日に開幕。「日本海」の呼称問題は初日から断続的に協議された。閉幕は27日。(共同)

 

 この分だといずれ併記される事になりそうだ。朝鮮人のしつこさは見習わないとな。(笑

 

 とはいえ、個人的に「日本」という呼称には「名前」以上の意味が無いと考えているので、日本海が東海になろうが実はどうでもよく思っている。

 

 日本海は日本列島によって切り取られた海であり、日本列島によって意味を成す海であるから日本海が望ましいとは思っているが、であれば、東シナ海は沖縄海もしくは琉球海に、南シナ海はフィリピン海などと呼ばねばならんな、と。

 

 朝鮮人が日本海の名称を変えたがる事自体を奇妙に思うのと同時に、日本海という名前でなければならないと思い込むのも実は奇妙なことだ。

 そもそも将来的に「日本国」という国家が存続するかどうかもわからない。

 日本列島が「日本」列島であるのは、この列島を統合している国家がたまたま「日本」だったからに過ぎない。

 倭国であれば倭列島だっただけのことだ。

 

 わたくしが「中国人」という名称を使わず、「支那人」を使うのは、「中国」という名称が国家に準じるからであり、将来的に国名が変われば漢人とか唐人とか歴史的に変わって来たように、国名によって変わるのは面倒なのだから支那人という名称を使うのが望ましいと考えているからなのだが、

 であれば、同様に「日本」・「日本人」という概念も、実は明治以降に作られたものであって普遍的なものではない。日本国という国体に準じた名称なのだから、国体が変更すれば名称は変わる。

 

 だから朝鮮人は日本海の名前を変えたいのなら、日本が解体されて国名を変更し、この列島が「東海列島」と名を変えるように仕向けることだ。

 そうすると、現在この列島に住む人々も、何の疑問もなく東海と呼ぶようになるだろう。

 所詮、名前などその程度のものなのだ。

 

 もはや世界は「地球連邦」の成立の途上にあり、その過程で国家の再編がなされつつある。

 「日本」や「日本海」という名前にナショナリスティックに反応して、それを守ることが日本を守ることだと信仰しながら、

 一方でデフレを放置し、日本経済の縮小を是認し、地方の発展を無視し、若者が日本を出るのが成功だとか言っている。

 「日本を守れ」とかいいつつ、守っているのは名前だけで、実質的に「日本国」は解体されつつある。

 

 更には、それだけ「日本」という名前を大事にしながら、一方で国内の地名や地域名に対しては何の愛着もない。

 市町村合併で伝統的な町や村を潰し地名を変え、「南アルプス市」とか伝統も郷土愛もへったくれもない名前をつけて平気でいる。

 子供の名前についても日本の文化や伝統、子供の将来を考えることもない「日本人」が、どうして日本海という名前にだけはこだわるのか。

 

 そうまでして名前にこだわりたいのなら、首尾一貫してほしいものである。

 

 わたくしは日本という名前にこだわりたいし、日本海という名前が続くことを望んでいる。だからそのために日本国の存続と列島の発展を願っているが、現実的に日本が解体してしまうのならば、そんなものにこだわってもしょうがない。

 重要なのはこの列島が発展していくことであって日本という名前が残ることではない。

 日本という名前を残すために「東京政府(千代田幕府)」の言いなりになって地方が衰退するのでは意味が無い。

 「大日本帝国」という名前を残すために沖縄が切り捨てられたように、日本(と言いつつ実は東京政府)を守るために地方が切り捨てられるのならば、そのような「日本」に忠誠を誓う必要などない。

 

 この列島が東海列島と名を変えることによって列島が発展するのならば、いつだってこの海を東海と呼ぼうじゃないか。

 

 

とか、ひねくれたことを考えた。

 


なかのひと Firefox3 Meter

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企業と国益

2012/04/23 11:34

 

 日通のCMが興味深い。

 

CM情報 日本通運

 

 「中国上海からシンガポールまで7000キロのトラック輸送ルートを確保しました」

 「名付けてSS7000」

 「このルートを基点に大メコン経済圏内陸部を結ぶ戦略的サプライチェーンを実現しました」

 

 

今や世界の生産工場となったアジア地域において、地域内サプライチェーン構築は、グローバルな生販体制を有するお客様にとって重要な課題となっております。

日本通運では、中国・上海からシンガポールの約7000kmを結ぶ域内トラック輸送網を整備。お客様のサプライチェーンの最適化をお手伝いいたします。

 

 もはや「日本」関係ねぇ。(笑

 

 「アジア」の中心は上海であって、日本列島は無関係。

 なのに、「『日本』通運」。

 国外生産が主力なのに、「日産」と似たようなもので。

 彼らにとって「日本」とは何なのか?

 まあ、その辺は今後、社名も変わっていくだろう。横文字の「グローバルにわかりやすい」社名に。

 

 もっとも、そうやって日本企業が海外で儲けてくれるおかげで、日本は外貨を得る(輸入を維持する)ことができ、国内に富を蓄積することができる。

 とはいえ、ではその収益が国内で分配され、日本人の所得の向上につながっているかといえば、日本人は雇わない、工場は海外進出で過疎化してもしょうがない。日本で作るより外国で作ったものを買ったほうが安い。

 海外で上がった利益が、結局は海外投資に回されて日本列島や日本人の発展には寄与しない。

 

 にもかかわらず、「日本のために」海外進出だ。

 アジアで活躍する日本人(企業)素晴らしい、ともてはやす。松井やイチローがどんなに活躍しようと日本経済や日本球界にはほとんど貢献しないのだが、それがあたかも日本のために素晴らしいことだと思い込むのと同様。

 若者は日本を捨てて世界に出ていこう、それが「日本のため」だと。

 日本の発展のために、日本が衰退するから日本を出よう、それが日本の発展のためだから。

 全くもって支離滅裂なのだが、そのような思考が現実的に行われていて、

 現に、「日本」が存在しない「『日本』通運」のCMが普通に流れて、日本列島がただの背景になっていても誰も文句も言わない状況がすでにあるわけだ。

 

 

 とはいえ、そのような状況にしているのは、主として日本人の総合的な価値観の問題でもある。

 つまり、企業がそのようにして日本列島から出ていき、「日本のため」と称して日本を捨てているのは、別に彼らがそのような”反日的”な思考を持っているからではなく、現実に合わせて経営しようとすればそうならざるをえないからだ。でないと潰れてしまうからだ。

 企業は利益を求めて存在する組織なのであり、儲からないのに「日本のために日本に居続けろ」といっても無理な話だ。

 利益を維持するために価格を上げれば誰も買わないし、価格を維持するために人件費を下げれば誰も雇われない。それでも競争力を得るために安くても働く外国人を入れれば売国と罵られ、機械化すれば労働者が要らなくなり、雇用に貢献できない。

 企業が”反日的”なのは、日本社会がそうけしかけているからなのである。

 

 多くの日本人、日本社会、政治や行政を含めて、総合的な「空気」が、「日本は発展しない」というムードを作ってしまっている。

 それがデフレ不況を作り出し、そこから脱却できない状況を作っている。

 さらにはデフレ対策のためのリフレ政策をとらせない雰囲気も作らせている。

 

 そうして、そのような雰囲気に促された社会自体が、その雰囲気を固定するように作用する。

 デフレに適応した人間はデフレが正しいことだと誤解して、よりデフレを深刻化させてしまう。

 ”売国”に走るようにけしかけられた企業が、結果的に”売国”を促進するように、あるいはデフレを固定するように作用するのだ。

 

 たとえば、この「SS7000」だが、日通はもし中共とベトナムが緊張状態になった時どうするだろうか?

 南沙・スプラトリー諸島問題で紛争となり、中越国境が封鎖されるような事態になったら、日通は日本政府に対してどのように働きかけるだろうか?

 日本の国益を考えれば、尖閣問題を抱えるものとして、領土的野心をむき出しにする中共を安易に肯定できないだろうが、

 しかし、日通の利益を考えれば、そんな事に構う必要はない。早期に国境の封鎖が解かれるのが望ましいとなれば、日本の領土問題がどうなろうと、日本政府に対しては対中融和でベトナムに対して「譲れ」と圧力をかけさせるのではないか?

 

 現に尖閣諸島の問題で、経団連は必ずしも「日本(列島と国民)の国益」を考えた行動をとっているとは言いがたい。

痛いニュース 22年11月8日

 

 

 企業は企業の利益追求が第一なのであり、そのために国益が阻害されようとどうでもいい。

 それが「グローバル企業」であればなおさらだ。

 日本列島や日本人の存在を必ずしも必要としない企業が、日本のために利益追求を放棄する必要などないのである。

 

 こうして、デフレ不況の固定によってやむなく「グローバル化」せざるを得なかった企業が、

 結果的に、グローバル化によって、日本の国益を阻害し、あるいはデフレを固定させ、日本経済のさらなる縮小を求めるように動いてしまう。

 確かにこれらグローバル企業は反日的であるし、日本の国益を棄損するような存在になっている。

 しかし、そのようにけしかけたのは、まずもって日本国内の発展を諦め、日本経済の縮小を是認した国民の「空気」にある。

 

 表面的な、このような「反日的」企業を排除したとしても、それらが生まれてくる状況自体が変わっていなければ、また同じような者は次から次へと生まれてくるだろう。

 病気になるのは病原菌があるからではない、病原菌に脆弱な、あるいはそれを引き寄せる体質があるからである。

 体質が病気を生み出すように、日本社会自身が、日本社会を破壊する者を生み出しているのだ。

 

 デフレは民意である。

 その価値観を変更しない限り、日本の衰退は止まらないだろう。

 

 さしあたり、日銀の金融緩和、それに必要な日銀法の改正のゆくえが、日本の国家としての分水嶺となるだろう。


なかのひと Firefox3 Meter

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住民代表

2012/04/22 18:27

 

MSN産経ニュース 4月20日

 

 2月19日の埼玉県新座市議選で初当選したタレントの立川明日香市議(27)について、「市に生活の本拠がない」として市民から市選挙管理委員会に当選への異議申し立てが出されていた問題で、市選管は20日、「当選前に規定の居住歴がなかった」として、申し立てを認める決定を下した。

 

 公職選挙法の規定では、この日から21日以内に県選管に不服を申し立てなければ、当選の無効が確定し、立川氏は失職する。不服申し立てがあれば、県選管は審査の上で60日以内に決定を出すが、その決定にさらに不服があれば、高裁で県選管を相手取り決定の無効を求める訴訟を起こすことができる。

 

 今回の問題では、公選法の「市町村で選挙権を有するにはその区域内に3カ月以上の居住が必要」の規定が問題になった。被選挙権を得るには選挙権を有することが前提となるため、立候補した者も選挙区内に3カ月以上の居住歴が必要となる。

 

 立川氏の当選後、市民から「市に生活の本拠がない」として当選に対する異議申し立てがあり、市選管では調査を行っていた。

 

 この件も猫ひろし氏と同様の動きに感じられる。

 

 住民を代表するためにはその土地の居住実態がなければならない。

 それは正しいように思われるが、ではなぜ国会議員についてはそうなっていないのか。

 国会議員の場合、居住実態がなくても地域代表としての議員になることができる。

 郵政選挙の時の堀江貴文氏のような「落下傘候補」しかり、大橋巨泉氏などはそもそも日本に定住してすらいなかったが日本の政治に関与できた。(すぐやめてしまったが)

 

 もし、居住実態がなければその土地に対してまともな政治が出来ないというのであれば、国会議員もそうすべきだ。実際、ろくに日本に住んでいなかった者や、日本人の意識に欠ける政治家によって国益を害する(あるいは国益のためと称して地方の利益を阻害し結果的に国益を阻害する)決定がなされるのもしばしばである。

 逆に、国会議員が落下傘候補でも、日本に定住しない”無国籍”な者であっても、まともな政治ができるというのならば、地方行政でも居住実態などいらないはずだ。

 地方のしがらみにとらわれた「豪族」的な政治になるよりは、「外の血」を入れる意味でも、居住実態を問わないほうが、地方自治のためになるのではないか?

 

 ましてや、その「居住実態」たるや。

>公選法の「市町村で選挙権を有するにはその区域内に3カ月以上の居住が必要」の規定が問題になった。被選挙権を得るには選挙権を有することが前提となるため、立候補した者も選挙区内に3カ月以上の居住歴が必要となる。

 

 たかだか三ヶ月その土地に住んでいれば良いだけの話なのだ。

 「居住実態」自体が形骸化しているのである。

 当人が実際にはその土地がどうなろうが知ったことではなく、自分の利益のためだけに市議になろうとしているとして、あるいは意図的に破壊しようと目論んで政治家になろうとしているとして、住民票を移して三ヶ月以上住んでいれば、公職選挙法上の問題はないのである。

 そこで「その土地のためにならない政治家」を阻止する方法は、選挙による選別以外にない。

 三ヶ月以上の「居住実態」があればその土地に対する責任を持つだろうという想定でもしているのかもしれないが、実質的に何の意味もない規制なのである。

 

 居住実態があろうとその土地に愛着のない者はいるし、居住実態がなかろうとその土地のために働こうとする者もいる。

 居住実態はないが、国籍を変更してカンボジア代表になった猫ひろし氏は、カンボジアのために全力を尽くすはずである。

 それは日本国においても、地方においても同じ事だろう。

 

 そして結果的に、ろくに顔を見たこともないような候補を有権者は市議に選んでいる。

 居住実態があろうがなかろうが、有権者にとってはどうでもいいのだ。

 「民意」を尊重するのならば、もはや意味のない居住実態などという規制は排除しなければならないだろう。

 

 落下傘候補の国会議員が何の問題もなく選ばれている(当選した議員が地元に戻らなくても平気で選ぶ)のと同様、市議においてもその土地に住んでいるかどうかは問題ではない。

 重要なのはその土地のためになるかどうか、その土地の住民のためになるかどうかしかない。

 

 そして住民がその土地のためにならない候補でも平気で選ぶような選択をするのであれば、それは住民の自己責任である。そのようにして自分たちで自分たちの土地を破壊したいのなら破壊させるべきなのだ。

 それが民主主義なのだから。

 

 民主党を選んで、自ら好んで日本の混乱を選んだように。

 橋下氏を選んで、自ら好んで大阪の混乱を選んだように。

 それは自己責任として結果を甘受すべきである。

 それが民主主義なのだから。

 居住実態があろうがなかろうが、それを含めて民意を問えば良いのであって、「お上」が規定するようなことではない。

 

 そうして日本国とか国籍、民族性、日本人というアイデンティティは徐々に失われていくだろう。

 地方がすでにそうなっている。日本人というアイデンティティが地方人というアイデンティティを破壊したように、

 統一地球政府と地球人(もしくはアメリカ、あるいは中共)というアイデンティティが、今度は日本という地域性を破壊するのである。

 

 この問題が取り上げられたのも、結局はそういう動きがあることの現れなのだ。

 

 企業の国際化、社内英語化、自由貿易、TPP、東アジア共同体、道州制、猫ひろし問題、そして地方自治における居住実態の問題。

 これらはすべてリンクしている。

 「日本国」の解体が進んでいるのだ。(※「日本」の解体ではなく、「国」が解体される)

 

 

なんてな。


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インターネット政府

2012/04/20 23:09

 

MSN産経ニュース 4月20日

 

 首都のリスクを軽減するために、政治・行政機能の一部を移転するといった案を検討してはどうだろう。

 東海・東南海・南海地震で関東以西の広範囲が被災するケースを考えれば、関東以北、たとえば福島を移転候補地としてもよい。除染の進展など復興促進という効果も期待できる。

 

 知事に当選した当初は首都機能移転に批判的だった石原都知事も、最近は首都機能の分散に理解を示しているという。

 さすがに東日本大震災の惨状と、予想される首都直下地震の影響を考えれば現実的にならざるをえないのだろうが。

 しかし、であればもっと早めにやっておくべきだったと思わざるをえない。

 

 首都移転を構想したのが金丸氏だったがゆえに、派閥的な力学で反対に回ったのかもしれないが。(wikipediaによれば石原氏は当初は賛成だったとか)

 そういう「政治的力学」が現実的な対応を遅らせるのは、原発反対運動が事故対応を疎かにさせたことからも見られるように、頻繁に見られる光景である。

 今頃賛成しても、この10年の遅れは取り戻せない。くだらない政治的主張によって失われた災害対応の時間は貴重だった。かつ、首都機能移転のための「大規模公共事業」が行われていれば、ここまでデフレが長引かなかったかもしれないという点も含めて。

 

 とはいえ、わたくし自身も石原氏と同様の考えを持っていて、金丸氏や氏の派閥が主張する公共事業に反対していたのだから、これは他人ではなく自分に対する批判でもあるのだが。(そういう「政治的力学」が自民党を下野させ民主党に政権を取らせたのでもあるし、小泉政権や郵政民営化を推し進めたのでもある。そこにあるのは政策的整合性ではなく政治的利害である)

 

 ともあれ、別にそういう政治的な批判をしたいわけではない。

 

 思ったのは「日本全国どこでも災害が起きる」という前提である。

 現在、大阪を副首都として整備するという計画があるそうだが、もし、首都直下地震と東海東南海南海地震が連動した場合どうするのか?といった具合で、二つあれば安心というものではないのではないか、と。

 

 東京も大阪も、名古屋もダメだったとして、では北海道や九州にも首都機能を置くのか?という事だ。

 そのようにして全国各地に「首都機能」を分散すると、今度は災害が起きない場合に「無駄」になる。

 冗長性と効率性は二律背反(トレードオフ)の関係にある。

 

 中越地震や東日本大震災、タイの水害で、日本メーカーはサプライチェーン寸断の問題に遭遇した。

 これは、部品供給など生産性の効率性を上げると、その一点が災害で機能を停止すると、全体の生産が停止するという冗長性の低さが露呈する。

 逆に、冗長性を持たせ、供給のルートを複数確保しておくようにすると、その分だけコストがまし、利益を圧迫することになる。

 万が一の災害の際には生産の維持を補償するが、その万が一が起きない間は無駄なコストとして利益を圧迫する厄介者になる。ゆえに、えてして災害が起きない間に「無駄である」と排除され、そして排除して効率化したあと、たまたま災害に起きて生産が止まり、企業に大損害を与える事になる。

 

 そのようなもので、つまり副首都を複数持つような体制は、おそらく災害が起きない期間が伸びるほどに、無駄であるとして常に批判の対象になるはずである。

 おそらくは大阪を副首都にするという構想すら、東日本大震災の記憶が薄れ、首都地震や東南海地震に対する恐れが遠のくにつれ、「無駄」だとして批判されるようになるだろう。

 地方の公共事業、インフラの整備、こと道路の整備が「無駄」であると忌み嫌われていたのは、ついこの間までの議論である。石原都知事が首都機能移転に反対していたのも、そのような「構造改革」の機運の中だった。

 

 能登の震災では、能登島にかかっていた二本の橋の内、一本が通行止めになった際、もう一本の橋でライフラインを維持することができたのだが、その橋については度々無駄な公共事業の象徴として批判されていたものである。

 しかも、そうやって二本あったことによって安全が確保できたことについては当たり前の事のように受け止めながら、しかし一方で地方に対する新幹線や高速道路の整備については相変わらず無駄な公共事業という批判がなされ、「コンクリートから人へ」などという政党に政権が譲られたのである。

 

 という具合で、つまり、現状の首都機能移転は現実的に不可能ではないかということだ。

 利便性で東京一極集中にまさるものはなく、それに変わるものは、別の地域の一極集中でなければならない。

 東京と大阪で二極に分散などという体制は、長続きしないし、合理的ではない。

 そしてどこかに一極集中させるのであれば常に災害の直撃による機能不全を起こす可能性があり、分散については維持自体が難しい(財政的にも国民感情的にも)。

 また分散したとしてもそれらが同時に機能不全になる可能性もある。日本中、どこも安全な所などないのだから。

 

 ゆえに、そもそも政府の体制自体を変更させる必要があるのではないかというのが、今エントリで言いたいことである。

 

 モデルとして考えられるのが、インターネットである。

 インターネットはその設立が軍事目的であることが有名だが、そのメリットは「中央がない」事である、と。

 それまでのコンピュータは中央にメインコンピュータがあって、各端末から中央にアクセスする方式だったが、それではメインコンピュータを機能不全にされると全体が行動不能になる。

 ゆえに、個々で独立したコンピュータがそれぞれ並列的に存在し、どれか一つが機能不全を起こしても、それ以外のコンピュータで代替できるようにすることで、全体の行動を維持できるようになる。

 

 これを政府機能に置き換える事はできないだろうか。

 

 あるいは各自治体がそれぞれ独立したコンピュータであると仮定して、それらの統合が日本国という全体のネットワークを維持する。

 そして、東京や大阪が災害によって機能を失ったとしても、それ以外の地域の統合されたネットワークによって日本国の政府機能や行政機能は維持される。

 

 これは突き詰めれば、道州制の議論にもなろうし、政治家のあり方や選挙も変えることになるだろうし、何を持って国家とするかという議論や、そもそも日本人個々人、あるいは個々の家庭が独立した国家であるといえるというところまで人々の価値観を変える可能性もあるが。

 おそらくはそのような変質を余儀なくされるものと思われる。

 

 しかし、この手の意見はすでにかつて言われていたような気もする。

 企業単位で国家や国境を超え民族の枠を超えており、猫氏に見られるように国民個々において国家や国籍の意識の形骸化も見られるようになった。

 わたくしがこのように思ったのは、すでにそうなっているからなのかもしれない。

 

 

 ともあれ、政府機能の分散を行うならば、結局はインターネット的な分散でなければ現実的な維持は不可能ではないかと思われる。

 それが不可能なら災害によって政府機能が一時的に麻痺する事を受容する社会を構築することが現実的な対応となるだろう。

 災害が起きても大丈夫なように政府を分散するより、政府が機能を停止しても生きられるように自治体や企業、国民個々が自己防衛する以外にないのかもしれない。

 


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ロビー家

2012/04/19 12:47

 

「脱法ドラッグ」→「違法薬物」への指定迅速化へ 国内未流通の薬物も規制対象に 厚労省部会 (MSN産経ニュース 4月18日)

厚生労働省薬事・食品衛生審議会の部会は18日、違法薬物の指定手続きの迅速化や、海外で流通実態がある薬物を国内流通前に違法薬物に指定し、規制を可能にするなどといった対策強化を行うことを決めた。

 

食品栄養表示 義務化の案示す (NHKニュース 4月18日)

検討会ではさらに議論を進め、6月をめどに報告書をまとめ、消費者庁は、来年の通常国会に新たな制度の法案を提出することにしています。

 

 政治家の仕事というのは「立法」であり、法律や制度の制定にあると思うのだが。

 我が国においては、もっぱらそれは「行政」の延長として行われているように思う。

 

 もっとも、諸外国においても同様の例はあるのかもしれないが、こと、この「法律を制定・改定する」という場面において、あまりにも「政治家」の存在感がなさすぎやしないか。

 政治に対する認識が選挙や政局にしか向かない原因の一つにも、このあたりの問題があるのではないか。

 

 政治家個人や政党が議員立法など、法制度の設定や改定に関与することがまるで特別なことのように思われる風潮。

 薬害問題など個別の法制度で、マスメディアで話題になると政治家の本来の役割がクローズアップされるが、そうではない問題では、役所が粛々と「勝手に」法律を作ったり改定したりしている。

 そこでの政治家の役割は、役所が作った法律をどうするか決めるだけで、特に政局となると法律の内容などどうでもよく、それを通すか通さないかだけが問題となり、大抵はそのまま通る。違いは遅れるか早まるかだけしかない。

 国会で決めているのは法律ではなく、ボス猿の座の争いにすぎないかのように。

 

 我が国において、本来、政治家が行わなければならない事をしているのは役所であり、役所に紐付けられた部会とか検討会とかに参加している人であり、その場に本来存在するべき政治家はいない。

 そして政治家が行なっているのは、いわゆるロビー活動だ。自己の利益団体の問題については役所に圧力をかけて必要な法制度の設定や改定を行わせる。

 しかもそこで法律を作るのは役所であってその政治家ではない。政治家はただ役所に要求しているだけだ。

 

 つまり我が国の「政治家」は本当の政治家ではなく、ただのロビイストなのではないのかと思ったわけだが。

 

 とはいえ外国でも同じようなことなのかもしれんので、特に問題はないのかもしれないが。


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猫ひろし問題

2012/04/07 18:11

 

猫ひろしがカンボジアのマラソン代表で五輪に (MSN産経ニュース 3月25日)

 カンボジア国籍を取得してロンドン五輪出場を目指すタレントの猫ひろし(本名・滝崎邦明)さん(34)が男子マラソンの同国代表に決まった。カンボジア・オリンピック委員会のワット・チョムラーン専務理事が25日、明らかにした。他の競技の代表とともに4月に正式発表する見通しという。

 

 五輪の陸上では、参加標準記録を突破した選手が1人もいない国・地域は、男女1人ずつがいずれかの種目に出場できる「特例」がある。カンボジアはこれに該当し、猫さんは自己ベストが2時間30分26秒で標準記録に届かないものの代表に選ばれた。夢が実現することになるが、国籍を変更しての出場は論議を呼びそうだ。

 

  こんなことが許されるのなら、オリンピックに出たい日本人はアジアやアフリカの小国の国籍を(金で買って)取得すれば誰でも出場できることになる。(ムサンバニ選手のようなレベルでも)

 高橋尚子氏や井上康生氏も、こうすればオリンピックに出られただろう

 

 一方で、日本が100メートル走で金メダルがほしいのならアメリカから選手をスカウトし、日本国籍を取得させれて「日本人選手」にすればよいし、そのために追い出される「日本人選手」は、猫ひろし氏のように外国籍を取ればオリンピックには出られるだろう。

 

 そうなると国家や国籍といった概念が形骸化することになる。

 オリンピックの意味、特に国別にわける意味が問われることになるのではないか。

 

 

というか、この動きはそのような現在進行中のグローバリズムと軌を一にしているように思われる。

 国家や国籍、民族といったナショナリズムを否定し、個人の集合としての統一された地球政府、地球人を構築しようという流れ。

 「国際社会の国内化」である。

 

 猫ひろし氏のような動きは、今でこそ奇異に見られるが、ラモス選手のような例もさることながら(外国→日本はよくあったが日本→外国jが珍しいというのもあるだろうが)、国内においては高校野球などで普通に行われていることだ。

 「地域代表」でありながら、その選手のほとんどが県外出身者で、高校も私学で資本も県外というのは当たり前になっている。その土地に何の愛着もないが、甲子園に出るためにたまたまその高校を選ぶという事について、誰も問題視していない。それどころか推奨すらされている。「施設のない僻地の高校では才能が伸びないから甲子園の常連校に転校しなさい」などと。

 そうなると、もはや地域住民が応援しているのは、高校がそこに所在するという概念(もしくは名前)だけなのだが、それでも「感動した」とか言っているのだから、今後オリンピックの「日本代表」が外国人(たとえば陸上においては全てが黒人種)になったとしても、日本人は素直に感動するだろう。

 

 そしてそのような風潮が進めば、そもそも日本人とは何か、何をもって「日本」とするか、という疑問に突き当たる。

 そもそも日本が国家として統合されていることに意味があるか。

 日本の現在の社会秩序が維持されれば、別に独立国家でなくてもいいのではないか。

 東京が日本州の州政府になって、日本自体が一地方自治体になったっていいじゃないか、もしくは日本列島がいくつかの州に分かれてそれぞれが独立した(今でいう国家的な)自治体となって、世界政府に統合したっていいじゃないか。

 そうなるだろうし、そういう動きに、すでになっている。

 

 

 日本国内において、「地域」にはもはや名前以上の意味はない。

 この土地に生まれたのだから、この土地を発展させたいとか、この土地をもっと良くしたい、とかそういう思考は「無駄」

である、と。

 もっと良い生活がしたいなら、発展した場所に引っ越せばよいのだ、と。

 医療や育児・介護を維持するためにドクターヘリだの補助金だのをつぎ込むより、そんな連中は一箇所に集めろ、と。

 コンパクトシティだ、都市に集約だ、引っ越せ引っ越せという訳で、愛郷心とか、その土地に住み続ける、そのために発展させる、という意思も意味もなくなっている。

 地域主体ではなく個人主体になってしまっているのだ。

 

 であれば、なぜ「日本を発展させたい」とか「日本の経済成長が必要だ」とか考える必要があるのか。

 

 国内において過疎化する僻地からは引っ越して、より合理的で無駄のない金の使い方をすべきだと思うのならば、

 過疎化し、発展の余地のない日本などからは引っ越すべきであろうと。

 地域というのは単なる宿り木であって、人々はより合理的に効率的に移動しながら生きるノマドになるべきだというのが、グローバリズム(これは日本国内においてそうなっているという意味で)なのであれば、日本自体もまた、見捨てられる僻地になったとしても何ら問題はないのである。

 

 

 猫ひろし氏のような生き方は、今後の「日本人」(というか「地球人」)の基本形になるだろう。

 農業がしたいなら、東南アジアかアフリカでやれ、というように。 

 


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【小説】日本語

2012/04/07 15:03

 

  ある日突然、日常から日本語が消えたとして、おそらく日本人はそのまま受け入れる。

 

 テレビからは外国語の放送が流れ、新聞はすべて外字紙となり、学校の授業も外国語によるものになったとして、

 日本人はそれに逆らうどころか、むしろそれを推し進めるだろう。

 書店では外国語の辞書が売れ、スピードラーニング的なハウツー商品がブームになる。

 

 日本語の使用は禁忌とされ、看板やポスターなどから日本語が排除され、日本語が表示されているものには墨が引かれるだろう。

 

 そうして「民間」から、立法措置が促される。

 立法化しなければ、逆らうものを処罰できないからだ。

 「外国語使用円滑化法」とかなんとか作られて、罰則があろうとなかろうと、それをタテに社会から日本語が排除される。

 

 「看護師」という名称は、単に男性も所属する可能性があるゆえに、「看護婦」という職業名では誤解を生むからという理由で作られた行政手続き上の規定であるにもかかわらず、それが国によって決められると、まず報道から消え、ドラマから消え、ついには日常からも失われた。

 今日では愛称としての「看護婦さん」の呼びかけすらはばかられる風潮があるが、それは法的に強制されているのではなく、日本人の社会的な「同調圧力」によって生まれている。

 

 同様に、ある日突然、日本語を使うのをやめましょうとなれば多くの日本人はそれに従い、日本語を守るよりは、日本語を使い続ける人間を指弾する側に回るだろう。

 

 現に、誰も楽天を批判せず、ユニクロを賞賛するように。

 

 

 そもそも現状の日本語も、歴史的に何度か急激な変化を経てきた。

 明治の標準語化、戦後の新仮名遣いなど。

 それらは教育によって浸透し、親と子の世代で使う文字や文体が違うなどの齟齬があっても、日本人は平気で社会を維持してきた。

 

 現状の日本語でも、多くの外来語・カタカナ語が入っており、いつの間にか会話の内容の多くが外国語になっている事もザラだ。

 そうして親が自分の子供が何を言っているかわからないという事があっても、それはそういうものだとして誰もが受け入れている。年寄りにはテレビやパソコンの使い方がわからないといった程度の話として。

 

 だから日本が明日から英語や北京語の社会になったとしても、日本人・日本社会はおそらくなんの混乱も起こさないだろう。

 そして、事の初めからそれが日本社会なのだと信じこんで疑いもしないだろう。

 明治の日本人から見たら、これが日本だとは思えないようなものを、現在の日本人は日本だと思い込んでいるのであるから。

 

 我々が現在、国家だと思っている日本が、はたして本当に独立した国家といえるのかどうかさえ、誰も疑問を呈さない程に、日本人の認識というのはその程度のあやふやなものなのだ、と。

 


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